第7章         マスター大いに語る 近年の予想

だから、おそらく、2013年以降になる可能性があるけど、日本とイスラエルが手を結ぶようになるでしょうな。

 それまでに、伊雑宮も河合神社も蘇るでしょうけど、一旦日本、これ今年、来年と、あんな大きな会社がという大企業が潰れます。それと、地方銀行がまた不良債権が大きすぎて潰れます。こんな状態がずーっと続いていって2007年には、今の現行の使っているお金も、株も、債権も、保険も、生命保険も、ありとあらゆるすべての財産と言われるものが紙くずとなります。国債から、生命保険も全てが。

 価値が急暴落するということです。

 その時に、三柱が立つわけですな。

 その、豊受、そしていわゆる、内宮外宮伊雑宮。下鴨上鴨そして河合神社。

 だから、三輪だけではないのです。大事なのは。

 三輪と巻向は、旧日本の邪馬台国首都であったところです。

 だから、三輪の舞は何を意味しているかということですね。

 あの、鞍馬の火祭りのときに、鉄の輪と書いてカナワの能が踊られるんですが。

 その時に、よく聞いていると、「三輪が先ぞ」と謳ってるんです。

 三輪が先、つまり、今の天皇じゃない、本来の日本の天皇ニギハヤヒのほうが先にこの国に来ているということを伝承しているんです。

 日本の学者は日本の古墳は日本独特と言いますが、日本で最も古いと言われる古墳よりも300年古い古墳が朝鮮民主主義人民共和国で見つかっているのです。

 だから、何が古いというのではなく、過去において、大陸と日本が繋がっていたことをそこから知るべきですし、古代において日本固有の領土がどれほど広かったか、同時にアジアの文化圏というのがいかに広域であったかを知ることが必要ですね。

 

 

 だから、今おかしいのは、日本の国というのは中華人民共和国とか朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国にものすごいアレルギーなんです。差別してチョンコだなにだと言う人間達に、あなたの国王、統領がどこの出身ですかと、訪ねたなら、それを今の大韓民国の人だと言うと、日本人は「学校で教えられたことと違う」と困惑します。ワールドカップ後、現に今めちゃめちゃなのです、この国は。

日本の歴史そのものは何万年というスパン(期間)なのに、たった2000年そこらのことで苦しんでいるわけです。

それを上手いこと治めようと思ったら作り話を作るしかない。

 私たちみたいに、筋道立ててちゃんと話できるものが歴史を正せば善いのですが、中途半端に歴史をかじったようなものが、ちゃかしを入れるから、この天皇とは何かと言う問題には騒乱が起るわけです。

つまり、騒ぐものほど、この国のありがたさを知らない。

なぜなら、菊花紋の意味も知らないようなものが日本の国が素晴らしいと言ってみたりしています。正確に方程式に乗っかって、じゃあ、この国のどういうところが素晴らしいのか、どういう民族なのかを話せなくてはいかんわけです。

天照大神を祖としていると言い、天皇家を奉って宗教を商売化し、経営をしている類のものは、大勢いますが、出雲や伊勢、大和に例の三柱、ほんとうの神官や僧侶はもとより、歴年の考古学者や一般の求道者たちにいたるまで、そんなことが嘘であることが分りきっているわけです。

 つまり、実際の系統を、です。

 私たちは現在の皇太子に実際に会って話ししたこともあるわけですから、今の皇室について否定しませんが、まぁ、もうちょっと垣根を下げてくれていつでも私ら一般市民と話す機会を持ってくれたらいいのになあ、と思うわけですよ。

 それには、治安がもう少し行き届かなくてはなりませんね。

 つまり、アハリアの言いなりになって私利私欲に翻弄、同胞を見殺しにする総理大臣よりも、世界平和を基本として仰る、リーダーとしてそもそも天皇のほうが、よっぽど善いのです。天皇の役割とは、例え全世界が悪に奔走しようとも、御自らは平和の柱となり、平和の祈りを続けることです。だからこそ尊いのであり、祈り続けるからこそ天皇であるのです。そういった方は稀で、そして態度は一貫して、誰に対しても丁寧です。

 では、なぜ天皇は言葉を正され、日本語を保たれるのかをお教えいたしましょう。

 元来、天皇は水を管理される存在でした。天皇即位の大嘗祭には、三輪山の東方に悠紀田、西方に主紀田を設け、神社にこれを供えて儀式を行ったわけです。

 この春先の田植えそのものを、率先して天皇が行われていたのです。

 もちろん、稲をもたらしたご本人なのですから。

 わかりますかな、天皇とは、技術者であり博学の博士なのです。

 その天皇が、研究によって解き明かしたのが、水の法則です。つまり水は神仏そのものであり、この水に綺麗な言葉で感謝を表す場合、水の分子は綺麗な結晶を描きます。また、これに逆らって、汚れや乱れのある言葉を発すと、水は腐敗に向かうのです。

 天皇は早くからこれに気付かれ、健康や長寿の源として言葉を大切にする必要性を国民に諭されました。天皇の言葉によれば、水には神仏の命、すなわち霊が宿るといいます。これによって言葉は言霊だから大切だと教えられたのです。

そう思えば、私は今の皇太子こそが、天皇に相応しいと思います。

 今の皇太子は、徳仁様。あの方はまったく無名な私たちの名詞でもちゃんとお辞儀して丁寧に両手で受け取ってくれましたよ。

天皇家の話にしても、結局そこに、春日大社という藤原一族というものが出てくるわけでしょう。アメノコヤネというのが祝詞を奏上するのが非常に上手で、神道の祭司としたというわけですが。

 だけど、本当は神道の祭司というなら、物部氏ですね。

 だから、物部守屋と鹿島の大鹿というのが一緒だと言うのですよ。

 つまり、ここで分かってくることは、物部守屋と藤原鎌足が繋がってくるということです。

 それで、これおかしいですよ。

 何がって、物部守屋を倒したの、これ聖徳太子だとなっていますからな。教科書が教える日本史。うそでしょう。

 物部氏は日本の神道を一生懸命司って祭りごとをしてきたわけですよ。

 そこへ、仏教を蘇我氏が持ち込むということになっているわけでしょう。

 蘇我氏が持ち込むけど、それをバックで応援するのが聖徳太子だと。

 

 このストーリーもおかしいわけです。話がね。なぜなら、聖徳太子のバックボーンは秦河勝です。秦氏ですよ。ダビデ王の末裔始皇帝のそのまた末裔ですよ、彼は。

 ほら、面白いですよ。秦氏と言えば、ずばりユダヤですよ。

 聖徳太子という名は贈り名なので、そんな名前の人は存在しませんが、聖徳太子のモデルとなった人は存在したということです。

 しかも、物部守屋と聖徳太子は大阪府八尾市の大聖将軍寺ではセットで祭られています。

また、蘇我入鹿の居城であった奈良県橿原市の甘樫の丘には聖徳太子がその丘の上に立ち政治の構想を膨らませたという伝承まであるんです。

聖徳太子の本名は、倭王・海多利子北狐。

甘樫の丘、海が死の丘、掛詞になっているわけですよ。

 さて聖徳太子とは誰のことなのか。

 天皇家と、いうよりむしろその後の藤原家が一挙にその名前を滅ぼした邪馬台の王、つまり倭王のことを総称して、聖徳太子と言っているわけですな。

 結局、物部藤原は神道を以て国を治めたかった、しかし倭王は、それ以上にインドの神道である仏教に魅せられたということです。

 絶大な権威と、信望を集めるその人の言うことを聞かざるを得なかった他の官僚たる重臣とは倭王と物部、さらには蘇我との関係一切を、1400年前に消してしまわなければならなかったのです。

 そうして、藤原の名によって、全てを書き換えました。

 現実に行われた出来事は変わりませんが、言うなら、この時代を榮に、国と国とのボーダーラインがはっきりしてきて、日本そのものの歴史が栄えあるだけに、隠さざるを得なくなった、ということです。

 これは、倭国からの隣国の独立そして分裂を物語っています。

 まぁ、こういった昔のことも雄略天皇ぐらいから皇室以外には全くわからなくなってしまったわけですがね。

 大韓民国や中華人民共和国が、日本海を東海にしたい思惑には、栄えある日本に対し、その栄を逆手にとって、また軍国化されるのを懸念しているというのが見えます。

 今でこそ言いますが、中華人民共和国は、一時日本を支える国と呼ばれていたのです。日本の一番安定していたのは那古、今の名古屋の栄市です。

 もっぱら那とは日本の商業ベースのことなのです。

 支那という本当の意味、これは、中東やインドが言うのよりもっと、今の日本的には中国に対して蔑視ですが、日本に天皇たる倭王のおられた時代は、中国自ら支那を名乗り、そこに誇りを感じていたわけですから、今の日本人がいかに低俗に見られているかということです。つまり、尊敬されていない。

 今でも、この140年ほどは、中華人民共和国は日本企業の工場として機能してきたわけで、もうすぐ立場も逆転するかもしれませんが、日本人の中には、過去の栄光を間違った解釈で、いい気になってるのも居るのかも知れませんが、間違えてならないのは、隷従ではない、天皇のもとに平等であるという意識です。

 だから、バブル期から最近にかけて、コストの安い中国に物を作らせろ、という表現をした者は反省するべきです。

 しかし、中国最古の帝王、伏義や神農ですら、日本に留学してきた事実を鑑みれば、一体この日本国の商業那、ことに首都この三輪がどういった場所なのか理解できませんかな。

 まぁ、倭王といえばニギハヤヒのことです。

 そして、その子孫王への敬称です。

 その倭王が残した、我が国最古の憲法の訳をパンフレットにしてありますので、よろしければこれをどうぞ。

【17条憲法の現代語訳】2001年訳

■第一条 仲良くお互いの心を大切にしよう。実績のある人に逆らわないように心掛ける。人は皆それぞれに考えがある。それゆえに、あるいは天皇に従わず、臣下と意見が違うことがある。しかし、上の立場の人は和し、下の立場の人は仲良くして、事を論ずるに和をもってすれば、事理はひとりでに通じて、功を修めることができる。

■第二条 日ノ本国の官僚であることを忘れず、この憲法を守り、皆仲良くする。これは、全て倭国民の基本理念である。時代が変わろうとも、この基本理念を疎かにすることは考えられない。仕事仲間は兄弟と思い、善き事をよく教え合おう。
この憲法を守らなければ、誰が日本を守るというのか。

■第三条 天皇の決定は、謹んで実践しよう。全員の決定は個人の決定であらねばならない。個人の決定もまた全員の決定と相違してはならない。例えるなら、日本は人の身体と変わらないのである。
組織たる天皇からの伝達は、曲げることなく官僚に伝える。また同じく官僚の意思は曲げることなく天皇に伝える。

■第四条  この国家の基本は礼である。上司に礼がなければ部下は整わない。部下に礼がないときは必ず罪がある。
礼のあれば、関わる人は皆やさしく、楽しく暮らせるのである。

■第五条  接待を絶ち、公の利益を重んじ、部下の訴えを公正に聞くべし
。また、官僚や、他の団体に対して賄賂を送るなど、談合を持ってはならない。

■第六条  功労を称えよ。また、不正をみては必ず究明せよ。上司に諂い
嘘をつく人は国を退廃させる大きな癌である。また、おもねり、媚びる人はえてして、上司に対して好んで部下、同僚の過ちを言い、部下、同僚には上司の失敗を誹る。このような人は天皇や官僚、人民に忠心が無く、人に仁愛をもたないものである。それが国家が乱れる本になるから、警戒し、人選を誤らないようにする。

■第七条 人それぞれ任された立場がある。それぞれの役職を混乱させてはならない。賢人が任務すると賞賛の声が起こる。邪悪な人が任務すると、災いや混乱が度々起こってくる。
 生まれつきの知者は少なく、よく思考して初めて気が付いた人となることができる。事に大小があるわけではなく、時に緩急があるわけではない。賢人になって自ずから寛大になると古来より言う。これによって国家運営は遂行され、続き、国運は危機を退けるのである。ゆえに、昔の賢い統治者は国のために人を求めても、個人のために人は求めなかったのである。

■第八条日本国(和魂)を愛す、疑わない。


■第九条 信じることは、義の本である。全てのことに信じる気持ちがあるべきである。善いこと悪いこと成功すること、失敗すること、すべて信じる気持ちによっての事である。国家に皆互いに信じる気持ちがあれば、何事も成功する。逆に信じあわなければ、すべて失敗する。

■第十条 憤慨せず、怒らず、そういう得に成らない気持ちは棄てて、他人が自分の意見と違うことを怒らない。人にはそれぞれに心があり、思うことがある。他人が良しということは自分には非であり、自分が良しとするものは他人には非であるもの。これほど時代が進んでも、一向平安穏便にできる人がいないのだから、誰が偉いという話も無い。
故に誰しもお互い様なのであるから、他人が怒ったら自分に過ちはないか反省せよ。自分ひとりが分かるようなことでも独断せず、天皇や官僚の意見に従って行おう。


■第十一条功績を明察し、賞罰は必ず的をうるようにしよう。日頃、功績の無い人を優遇したり、罪の無い人を責めたりしないようにする。

■第十二条 官僚は、部下に酷い条件を与えてはならない。責任ある人は、人の心を預かるので、それぞれに重大な使命をもってこれを行う必要がある。

■第十三条官僚は、仕事の足並みを揃えよう。万一連絡が行き届かない場合も、それを知ったならば速やかに同調せよ。自ら報せを聞こうとせずに国政の仕事の邪魔をしてはならない。近況を知るのは官僚各位の権利であり義務である。いかなるときも、遠慮せず連絡をし合う。これをもって意思を疎通する。

■第十四条大臣として任務を担う人、その部下である人も、嫉妬をしていてはならない。自分が他人を嫉む時は他人もまた自分を嫉んでいるものだという。嫉妬の弊害は限りない。ゆえに、知能が自分より優れている他人を見ると悦ばないし、才能が自分より優れている人に嫉妬する。嫉妬するなら、相手より学ぶほうが良い。己の弱さに甘える事無く、先に進もう。

■第十五条私情に走らない。国営の大体が見えていない時、必ず恨みに思う人が現れる。恨みが有る時は必ず同じ心ではない。同じ心でなければ、私情で国家の行事を妨害する結果となる。ゆえに、第一条に上下調和を提唱するのは、この大事を安定に導くためである。

■第十六条 官僚は国政に労働する人を、時期や状態に相応して選び、活動の範囲を広める。
国、団体、個人の特性を見定めなければなるまい。

■第十七条 物事を独断で決めない。必ず多くの仲間と相談しよう。小さなことはいちいち人々に相談することはないが、大事に関しては独りでは失敗があるかもしれない。ゆえに、おたがいに相談すれば、正しい道を得るだろう。

どうですか、例えば天皇を総理大臣、官僚を代議士と言い換えれば理解しやすいはずです。また、組織の上下関係も然りです。もし、この憲法を今の時代の日本の政治家が理解し実践していたならば、日本はこんなに混迷の時代に入らなかったことでしょう。 

そりゃあ、隋の煬帝に「日出処天子、日没処天子に書をいたす、恙無きや」の書を送っても反感を買わないわけですよ。ニギハヤヒの出自が新羅、隋とも兄弟身分であり、昔は共に汗して戦った仲なのです。

 後で素性を知った煬帝にしてみたら、久しぶり、みたいな感覚ですよ。

 「恙無きや。」つまり、文頭から「お元気ですか、」ですよ。

 聖徳太子にしてみたら、「楊広、元気か、私は勝手ばかりで、弟のお前に苦労かけてばかりだ。父君亡きあと、私は葦原中国を経て、邪馬台国の美しき女性を妻とした。中国は安心して、治世するがよい。」

 楊広は煬帝の本名です。

 そうなると、聖徳太子は彼の兄、楊勇ではなかったか、と私は感じます。

このあいだ、このバーに来ることができずに途中で帰った人たちでも時代背景が読めないのは、日本人のほとんどが、作られた教科書に振り回されているからでしょう。

聖徳太子の墓がどこにあるか、知りたいですか。

ちょっと、この地図をご覧ください。

それは、奈良県の三輪山と葛城山の中間地点、奈良盆地のど真ん中です。

そこに、山があるのですが、これは山ではないのですよ。

高さはおおよそ、100mはありましょうか、四方の幅は正確には分かりませんが凡そ目測で一辺300mはあるでしょうな。

耳成山、この山は実は上円下方墳です。

この山から南南東が天ノ香具山膳臣娘、聖徳太子妃の実家のあるところです。このあたりからは今でも耳成山がいつでもすっきりと全貌できます。

そして、山の上には、山口神社と称される神社、まぁ、山口神社自体、奈良には14もあると警視の方から聞くのですが、つまり水を別けていた神様なのでして、それはつまり、天皇ですよ。さらに頂上には、明治天皇大演習御統監地という石碑が建てられています。

今は御統監はおろか、茂った樹木で盆地平野部を眺めることもできませんが、明治の初期には確実に見渡すことができたわけです。

この山の別名は毛無し山、木が立っていないということです。だから、昔のお歳よりは、「畝傍山も耳成山も明治の初期に植林したものだ。」と言っておられたわけです。

いつしか、誰もこの古墳について聞く人も居なくなって、耳は無し、耳成というので、耳成山と言われているのが、聖徳太子の本当の墓です。

この耳成山には13のトンネルがあり、ピラミッドのような構造です。大東亜戦争のころは弾薬庫としてあるいは防空壕として使われましたが、山口神社より上は聖域であったのか、何も手を加えられていません。ただ盛り土をしてあるだけなのです。

大和には大和三山といって、この耳成山に畝傍山に天ノ香具山という万葉集にも登場する名山があるのですが、この万葉集が、実はその後本名で語られることがなくなった墓の主について物語っています。

耳成山に住む姫と天ノ香具山に住む姫が、畝傍山に住む皇子を巡って争った三角関係で、結局最後は耳成山に住む姫が恋に破れて山の麓の池に身を投げるという話です。

これは、女性に例えた勢力の推移をあらわし、聖徳太子といういわゆる国津神が、百済の天津神に政権を奪われたことを比喩してあるわけです。

 それで、天津神に政治的に働きかけ、クーデターを成功させたのが中臣、後の藤原なわけですが、藤原といえば、奈良の郡山に行ってみたらわかりますが、大織冠ともいう藤原鎌足が元祖なわけです、その鎌足公の本名は中臣鎌子です。

 この、中臣こそは、日弥呼の重臣です。後に藤原京と称される都はニギハヤヒ在位中にあったということです。ニギハヤヒは、日弥呼=アマテラスの娘に婿入りしたわけですが、ニギハヤヒが若くして亡くなったあと、中臣にしてみれば野心がでてきたわけですな。良く言えば、日弥呼の重臣としてのプライドがあったわけです。

 そして邪馬台国に内乱が起っている間に、今で言う大化の改新が起りました。

 つまり、あなた方は学校の教科書で中臣鎌子(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)合同で、蘇我入鹿を討ったと教え込まれているわけですね。

 しかし、甘樫の丘で吉凶を占い政治をしていたのは、日弥呼の娘イヨと、その夫ニギハヤヒなわけで、蘇我馬子も蝦夷も入鹿も、言うなら一人称、聖徳太子なわけで、ニギハヤヒその人なわけです。おわかりいただけますか。

 蘇我入鹿と現在呼ばれている人物は、推古と呼ばれている女帝から寵愛を受けたと言われています。しかも、入鹿が斬られるときに「何ゆえ我を斬るというのか。」と叫んだと言います。

 馬子、蝦夷、入鹿、は蘇我三代の名前とされていますが、実際は。

 馬子(厩戸大王)は、蝦夷(岩手)から来て入鹿(藤原に勢力を吸収される)

 こんな単純なトリックにも気が付かないのです。

 また、厩戸自体が聖徳太子と同じく送り名です。

 一時、大和最古の寺として飛鳥の山田寺が有名になりましたね。その山田寺を創建したのが蘇我倉山田石川麻呂と言って時の右大臣です。持統天皇の親にあたる人物ですが、まったく、640年代大化改新そのころに政乱にあって自殺したとされています。

 今で言うところの内閣総理大臣であった彼が、何で自殺する必要があったのでしょうか、この山田寺はミステリーに満ちたところです。

 この、蘇我氏自体が、聖徳太子であった可能性が非常に高いわけです。

彼が生前に建造していた墓は、飛鳥の石舞台、これは日本で唯一確認できる正方形の御陵にしては小振りな古墳跡です。

 ダビデ王や始皇帝との繋がりを調べてゆけば、今石舞台古墳と呼ばれている墳墓を、だれが作っていた墓なのかが分ってきます。

 結局、おおよそ建造物でも石碑でも残さないほど破壊するというところに、返って、史実の重大さと、為政者による暴挙、戦や謀略に勝った側だけの言い分が通されるというセオリーが、この国にあるように感じますな。

 聖徳太子の墓について、亡骸が埋葬されたのが丹後ヒヌマのマナイ原、嶺山方面、旭嶺、モニュメントとして残されたのが耳成山古墳に仁徳天皇陵、生前に建造されていたものが石舞台古墳で現在その墓と言われているのが叡福寺だというわけです。

 耳成山古墳を御陵とするか仁徳天皇陵を御陵とするかにおいては、現在残っている聖徳太子が建てられた主だった寺院が奈良の法隆寺と大阪の四天王寺ということでも分かるように、臣下の為政者が権威の場所を示す象徴として、聖徳太子の御陵を欲しがったということです。その結果、現在聖徳太子の御陵は、大阪と奈良の中間、太子町の叡福寺北側に立てられているわけです。

 だから、今ある聖徳太子墓なるものは江戸時代に整備されたものですよ。

 聖徳太子を崇拝するあまり秦の始皇帝並の墳墓を建造した後の為政者の思惑とはうらはら、最終的に墓は、聖徳太子の遺言の通り、小さくなされたわけです。

 大阪が前方後円墳、奈良が上円下方墳、結局最後は円墳。

 当時は、例えるなら三輪がワシントン、藤原京がロサンゼルス、暫く後に建造された平城京がニューヨーク、難波宮がシカゴ、丹後がイギリスのような間柄ですが、それぞれがあたりまえに独立していたのです。

 今の大阪市に難波宮があったわけですが、645年の大化改新に伴う遷都で、難波長柄豊崎宮として652年に完成しました。

 686年に焼失したあと、726年に聖武天皇が再建に着手し、744年には一時首都として機能したといいます。

 結局これは、大阪と奈良に対等の政治的要所があったことを表しています。

 これらのことを何か特別で難しい昔話に感じるかもしれません。しかし、私の場合、幸いなことに飛鳥時代や奈良時代と呼ばれる時代に生きた俗に言う聖徳太子と藤原鎌足が身内の系譜としてお二人とも実名で存在したがために分っただけのことです。

 こういったことは、代々先祖崇拝を続けていれば、誰でもわかることなのですよ。

 先祖崇拝とは特別なことではないということです。親を敬うこと、子を大切に育てること、自分と伴侶の心を粗末にしないことです。

 アジアの日本人なら、あたりまえに持っている精神の感覚です。

 故国イスラエルとも共通の感覚です。

 先祖を敬い、子孫を愛しむとは、世界共通の思いなのではないですかな。


●ここに掲載してある文章及び映像・ドラマ化等の著作権の一切は現在、日本環境保全組合JKエンタープライズに基準しています。

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